ゲッセマネを偲びました。2024.3.17(日)

「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」              マタイの福音書26章39節

   説教題:『苦しみの祈り』       聖書:マタイの福音書26章36~46節

 救い主イエスは「祈りの人」であられたことが、福音書を読めばよく分かります。「朝早く、まだ暗いうちに」(マルコ1・35)、「神に祈りながら夜を明かされた。」(ルカ6・12)、「祈っておられると、その御顔の様子が変わり」(ルカ9・27)、「イエスはある場所で祈っておられた。」(ルカ11・1~主の祈りの教示)、「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために~たとえを話された。」(ルカ18・1~7)、「イエスは目を上げて言われた)祈られた~ラザロの墓の前で)」(ヨハネ11・41)等々。《イエスは祈りを愛されただけではなく、必要とされていた》と言われます。《祈り》すなわち父との交わりであり、また働きの原動力でもありました。ところが本日の『ゲッセマネの祈り』だけは、これまでの祈りとは大きく違うものです。いわばイエスの祈りのクライマックスとでも言えるでしょうか。

Ⅰ.苦しみの祈り イエスの語られた、また祈られた二つのみ言葉に、その苦しみのほどが表されています。【一つは、イエスは、「わたしは悲しみの余り死ぬほどです。」(38)と語っておられます。ルカ22・44では「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。これは死を恐れられたことを表しています。

もう一つは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください(39)。」です。<杯>はこの場合、神の裁きを表しています。(詩篇75・7~8)。ここでは裁きを受けるイエスが、この杯を取り去ってくださいと祈られたのです。】(『牧羊者』p.73)『ゲッセマネ』とは「油しぼり』の意味です。オリーブ山一画にある多くのオリーブの木が茂り、オリーブの実から油を絞るために人々が来て働いていたところでした。まさに「油しぼり」のような祈り、苦しみの祈りがそこでささげられたのでした。罪を知らないお方の上に罪が置かれ、その結果これまで父なる神との断絶を経験されたことのないお方が、神の怒りを受け、捨てられ、絶たれようとしておられたのですから、その苦しみはたとえようもないものであることを、イエスがご存知で、このように祈られ、苦しみもだえられたのでした。

Ⅱ.勝利の祈り 「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」(39)と、祈りはきっと聖霊によって導かれたに違いありません。御子の本質のきらめきに違いありません。その祈りを、イエスは二度目の祈り、更には三度目に祈られ、そしてついに立ち上がられたのでした。その合間、合間に、イエスは眠りこけていた弟子たちを励まされました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」(ルカ22・45)のでした。イエスさまも苦しみの中で、ご自分の願いを祈られました。しかし最終的には父のみ心にお従いされ、究極的に、そのようにしてサタンに、死と陰府と罪の力とに、完全勝利となる永遠の贖いを成し遂げて下さいました。《神の御心に従うことが勝利であり、ゲッセマネの祈りは勝利の祈り》となりました。「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」(ヘブル5・8~10)

<お知らせ>

▷イースター(復活祭)のご案内です。今年のイースターは例年より早く3/31(日)です。この日は「大人・子ども合同礼拝」です。子どもたちの入学進級を祝して祝福の祈りをささげ、プレゼントとして滝宮公園での‘イチゴ狩り‘をします。費用は教会学校から出しますので無料です。申し込みが必要です。用紙は教会にありますので、教会の先生からもらって、3/24(日)までに申し込んで下さい。この礼拝の中で、一組のご夫妻と、一人の姉妹の転入会式が行われます。大きな喜びです。

▷その前に、3/24(日)は受難週聖餐式礼拝です。私のための主のお苦しみを偲び、感謝しましょう。

       

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卒園・卒業、おめでとうございます!2024.3/10(日)

≪今週のみ言葉≫

 「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」マタイの福音書26章28節

   説教題:『新しい契約』         聖書:マタイの福音書26章26~29節

 「みなキリストにあって一つ」(ガラテヤ3・28)は、ケズイックのモットーのみことばです。九州ケズイック・コンベンションでも3/5㈫の「第5回四キ災セミナー」でも、教派・教団を超えての集いと交わりの麗しさを味わい、さらには2026年5月のウィル・グラハム博士をお迎えしての「愛と希望の祭典・四国」の準備も超教派で一つとなって祈り備えています。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。(ヨハネ17・22)と祈られたイエスと父なる神のお喜びを覚えることです。さて、本日のテキストは、受難週の木曜日の夜の出来事で、主が晩餐の席で「聖餐の制定」をされた時のみことばです。

 Ⅰ.聖餐式 以下は、教団『式文』の中の聖餐式式辞の一部です。【愛する兄弟姉妹、今、わたしたちは、主イエス・キリストの定められた聖餐にあずかろうとしています。主は、わたしたちの罪のために十字架にかかり、その死によってあがないを完成し、わたしたちを救い、神の子とし、永遠のいのちを与えられました。主は、その計り知ることのできない愛と恵みとをわたしたちの心に刻みつけ、ご自身の死を記念するために聖餐を制定され、ご自分が再び来られるときまでこれを守るように教えられました。使徒たちは、この教えを守り、代々の教会もこれを重んじてきました。】(『式文』P.50~51)主イエスは、明日は十字架にかかられるのを承知で、弟子たちにこの大切な聖餐を、ご自分が再び来られる時まで守るようにと、実物教訓をもって定められたのでした。キリスト教会の二つの重大なサクラメント(聖礼典)が、「洗礼式」と、この「聖餐式」です。「パン」は十字架上で裂かれるご自分のお身体、「ぶどう酒(汁)」は十字架上で流して下さったご自分の血潮です。この「聖餐を守る」ことによって、信じる者の信仰が守られるのです。

 Ⅱ.旧い契約と新しい契約 キリスト来臨の前では、幕屋や神殿において、おびただしい数の動物のいけにえが献げられました。「それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。」(ヘブル人への手紙9章9節) 「しかしキリストは・・・ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(同11,12節)「まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけわたしたちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。キリストは新しい契約の仲介者です。」(同14,15節) 使徒パウロは、使徒の働き20章28節に、「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と記します。まさに「キリストの血」がそれです。そしてそれは、‘Once for all.’(すべての人のためのただ一度の贖い)の「新しい契約」です!

<お知らせ>

▷卒園・卒業さらには受験シーズンのただ中です。かけがえのないお一人お一人の人生に、「最善しかなさらない神様」の良きお導きを心よりお祈りいたします。

▷過ぐる3/5(火)10:00~15:00 徳島神召キリスト教会において、四キ災主催の、「第5回災害支援セミナー」が行われました。講師に、九キ災本部長の市來雅伸兄をお迎えし、大変有意義な時が持たれました。YouTube配信中です。どうぞご視聴下さい。

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3月第一聖日礼拝でした。   2024.3/3(日)

《今週のみことば》

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

マタイの福音書22章37節

 説教題:『神と人を愛する』    聖書:マタイの福音書22章31~40節

  本日の聖書箇所は、受難週の火曜日、多忙な一日の中、神殿においてイエスとユダヤ人の宗教的指導者たちとの間で繰り広げられた論争(21・33~23・39)の中の一つです。「イエスが、サドカイ人たちを黙らせたと聞いて」(33)パリサイ人たちは一緒に集まり、「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた」(35)のでした。真理を追究するためではなく、イエスを非難し、その評判を落とそうとしての良くない動機からの質問でした。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」(36)さて、イエスの答えはーーー

Ⅰ.神に愛され、神を愛する。 重要な第一の戒めとして、本日のみ言葉を言われました。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(37)「律法の中で」(36)とありますが、【これは十戒に限定せず、モーセ律法全体を指したものである。ユダヤ教のラビたちはモーセの律法を細分化し、なすべき命令が「248」、禁止命令が「365」、合計「613」の戒めがあると教えていた。そのすべての命令の中でどれが一番大切なのかと尋ねた。】(『牧羊者』p.63) イエスの答えは、申命記6・5の引用で、「シェマ(聞け)」と呼ばれていて、ユダヤ人が礼拝の度に唱えるもので、一日数回は復唱することを義務づけられていました。「心を尽くし」=「あなたの心全体で」「いのちを尽くし」=「たましいを尽くし」更には「知性を尽くして」ですから、≪あなたの全存在をもって、あなたの神、主を愛しなさい。≫ということになり、ユダヤ人たちは幼い時から唱え続けてきたものですから誰も否定できませんでした。ところが異邦の民である私たちにはどうでしょうか?神を、そしてその愛を知るまでは神を愛することはできません。≪愛の源泉≫は神です。「愛は神から出ているのです。」(Ⅰヨハネ4・8)「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(同10)≪一方的な愛≫です。この父の愛、そして父に従順であったひとり子の十字架の愛を知り、真に私たちも全存在あげて神を愛する者とされます。

Ⅱ.神に愛され、隣人を愛する。 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」という第二の戒めも、それと同じように重要です。」(39)尋ねられたのは一番大切な戒めでしたが、イエスはこの第二の戒めも同じように重要とされました。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することができません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」(Ⅰヨハネ4・20,21)イエスの「隣人」の枠は、同族や寄留者のみでなく、「あなたを必要としている人」(ルカ10・29~37「よきサマリヤ人」)。「あなたに敵対している人」(マタイ5・43,44)にまで広げられます。「自分自身のように」は、マタイ7・12「黄金律」につながっていきます。では、『愛する』とは?Ⅰコリント13章『愛の章』に生きたいものです。

  <お知らせ>

▶能登震災から2ヵ月以上たちました。祈りの支援と共に、できる支援に用いて頂きたく思います。

▶卒園・卒業の月、年末度の3月を迎えました。一年間の守りと導きを神様に感謝し、4月からの新年度、神様のお導きにお従いして「祝福の基」とされたく祈ります。

▶さらに3月は、今年は「十字架と復活」の月となります。「罪のゆるしの十字架」「永遠のいのちの保証の復活」を記念する『復活祭(イースター)』に向けて、この『福音(グッド・ニュース)』を多くの方々に伝え、信じる方々が起こされるようにと熱く祈りたいです。

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2月最終聖日でした。  2024.2/25(日)

≪今週のみ言葉≫
 「見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。」
マタイの福音書21章5節

  説教題:『柔和な王キリスト』   聖書:マタイの福音書21章1~11節
「向きを変えて、子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くするものが天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18・3~4)「皆に仕える者になりなさい。」(マタイ20・26)「皆のしもべになりなさい。」(マタイ20・27) ‘Upside-down Kingdom’(上下逆さまの国)の王として、イエスはこのように語られただけでなく、またそのように生きられた王であられました。本日の出来事は「エルサレム入城」の場面です。他のすべての福音書に記されています。(マルコ11・1~10、ルカ19・28~48,ヨハネ12・12~19)。受難週礼拝日の出来事です。今年は3/24㈰がそれが当たります。そしてその週の金曜日に、イエスは十字架刑に処せられるのです。
Ⅰ.民衆の期待した王(8~11) 
子ろばに乗って入城されてきたイエスのために、「非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。」(8)彼らは王を迎える時のように(列王記第二9・13)、熱狂的にイエスを歓迎しました。さらに彼らは叫びました。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」(9)これは、詩篇118・25、26のみことばであり、「ホサナ」とは「私たちをお救いください」との意味のヘブル語です。民衆はまさに、待ちに待った王、また預言者が来られた!現実的なローマの圧政からの解放という輝かしい勝利が目の前だ!との思いでいっぱいでした。ところがイエスは群衆の期待通りには振る舞いませんでした。そこで人々の期待は失望に終り、妬みと憎しみに燃える指導者たちの声に巻き込まれ、イエスを十字架につけることになりました。
Ⅱ.神の期待に従った王(1~7)
 ①預言通りに。 まずはゼカリヤ9・9の預言のみことばです。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」 この世の王が来るのは、猛々しい軍馬でしょう。一体どの王がこのような「子ろば」に乗るでしょうか!?「ろば」は謙遜・柔和・平和の象徴とされています。イエス・キリストはこのような王であることを語っています。
②救い主なる王として。 群衆が叫んだ詩篇118・25、26のみ言葉は、「ああ主よ どうか救ってください。 ああ主よ どうか栄えさせてください。祝福あれ 主の御名によって来られる方に。 私たちは 主の家からあなたがたを祝福する。」とあり、『どうか救ってください。』が『ホサナ』です。神の期待は人の期待をはるかに超えたものでした。【そのような罪人たちのために、柔和な王はすべてを手放し、十字架におかかり下さったのです。十字架の死からの復活によって神は勝利をおさめられました。そのように、どのような王もなしえない素晴らしい勝利が、全ての人の罪の赦しと、救いの道を開いたのです。】(『牧羊者』p.56) 「ホサナ!」の叫びに、イエスは100%の救い主としてこたえられた柔和な王であられます。

  <お知らせ>
▶早くも2月を終わろうとしています。今年は29日㈭までありますが。「3月のメッセージ」「3月のお祈り」「ヘッダー(菜の花)」が更新されます。
▶3月は日本では卒園・卒業と悲喜こもごもの月です。また受験という険しい時期でもあります。一人一人の生涯にご計画をお持ちの神様に導かれてよい3月をとお祈りします。

▶「教会歴」ではクリスマスに続く第二の大きな祭である「イースター(復活祭)」を3/31㈰に迎えます。すべての人に『死より復活されて今も生きておられる主イエス・キリスト』を信じて永遠の命に生かされてほしいと祈りそのために労したいと思います。

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♪春は名のみの風の寒さや♪  2024.2/11(日)

≪今週のみ言葉≫

    「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

                         マルコによる福音書1章15節

   説教題:『神の国は近づいた』    聖書:マルコの福音書1章1~15節

 Ⅰ.イエス様は約30歳になった頃、福音宣教を始めるにあたり、人々へ呼びかけた言葉が「時が満ち、神の国が近づいた。」でした。神様の定めた時が来て、駅に電車が到着してきたように、この現実の世に突入してきたのです。すると、駅のアナウンスが始まりました。「ただいま到着の電車は『天国行、福音号』です。死出の駅を出ますと一路『終着駅・天国、パラダイス駅に到着です。ご注意下さい。』と、ありました。この電車は有限な常識の世界に、突然キリストの運転する「福音号」が現われたのです。この電車の世界では、死人が生き返るとか、五つのパンと二匹の魚で一万人以上の人が満腹するなど、当たり前のことなのです。ですから人々は疑い、戸惑い、躓いたのです。今現在も人々は戸惑っているのです。それでも多くではありませんが、「福音号」に乗り込んだり、乗り換えたりする人はいました。またすぐ横のホームには「永遠の滅び行:有限の命号」が大勢の乗客を乗せて止まっています。やがてアナウンスが聞こえてきました。「まもなく両号とも、死出の駅に向かって発車いたします。発車しますと両号とも並行して走ります。乗り換えたいと思われるお客様は死出の駅に到着するまでにお乗り換え下さい。死出の駅は一瞬止まるのみで、すぐに発車いたしますので、ご注意下さい。死出の駅からは『福音号』は『有限の命号』より離れて空へ向かって登っていきます。また『有限の命号』は反対に下へ向かって下降して行きます。ともに、それぞれの終着駅までノーストップで別れて行きます。そのことをよく確認してご乗車下さい。」と。

 Ⅱ.悔い改めと福音信仰

1、悔い改め:「福音号」に乗るにはプラットホームから、または「有限の命号」から降り、「福音号」に乗り換えなければなりません。この乗り換えこそ「悔い改め」なのです。洗礼を受けるかどうかはともかく、以前の考えや、行為から離れて、キリストにすべてを任せることです。中には、疑い迷い、「福音号」からプラットホームに降りたり、また「有限の命号」に乗り込んだり二つの間に迷うのは危険です。とは言え、命あるものはことごとく死んでゆく限界の世界から見ると、福音号は、あたかも宇宙人の飛行物体が到来したような戸惑いを感じると思います。「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには、神の力である。」Ⅰコリント1・18、とあるように、聖書の福音を滅びのこの世から見ると、おとぎ話に見えます。しかし、全能者のおられる「福音号」から見れば、奇跡は当然の結果と見えます。

2、福音を信ぜよ:ただし、この「福音号」に乗り込むには、この福音を全く信じるという信仰を証明する証明書、すなわち「信仰券」が必要です。聖書には、「恐れるな、小さな群れよ、御国をくださることは、あなたがたの父のみこころなのである。」ルカ12・32 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。」ヘブル11・6、また、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。」創世記17・1、とあるように完全な信仰を求めておられるのです。ですから、疑ったり、不信仰に囚われたりせずに、全き信仰をささげようではありませんか。

  <お知らせ>

▶ 先週、2/4㈰礼拝直後より「教会総会」が行われ、昨年の感謝を主にささげ、主にあって今年の歩みを踏み出しました。「行事計画」や「会計予算」が祝福されますよう、祈りつつ。

▶立春(2/4)を過ぎて、なお寒い中、能登被災地の方々の復興のため、支援活動をされる方々のため神の助けをお祈り致します。

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