「父の日礼拝」でした。2024.6/16(日)

<今週のみ言葉》

「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」    マタイの福音書7章11節

【「父の日の由来・フリー百科事典『ウィキペディア(wikipedia)』より】

1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド(Sonora Smart Dodd)が、男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いをして、父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。彼女が幼い頃、南北戦争が勃発。父ウィリアムが招集され、彼女を含む子ども6人は母親が育てることになるが、母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなった。以来男手一つで育てられたが、ウィリアムも子どもたちが皆成人した後、亡くなった。最初の「父の日」の祝典はその翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた。当時すでに「母の日」が始まっていたため、彼女は「父の日」もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになった。1966年、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。1972年になり、アメリカでは正式に国の記念日に制定される。母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラ。<6月第3日曜日を「父の日」とする27ヵ国>日本、中国、プエルトリコ、アメリカ合衆国、インド、カナダ、チリ、コロンビア、コスタリカ、フランス、トルコ、ペルー、スロバキア、南アフリカ共和国、シンガポール、ウクライナ、メキシコ、アイルランド共和国、オランダ、ギリシャ、アルゼンチン、パラグアイ、キューバ、エクアドル、パナマ、ベネズエラ。

Ⅰ.肉親の父の愛  親の愛は地上における大きな愛の代表と言えるものです。「あなたがたのうちのだれが、自分の子どもがパンを求めているのに石を与えるでしょうか。」(9)「魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。」(10)「このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知ってるのです。(11)「悪い者」という表現は、「悪人」という意味でなく、聖なる天の父と比べれば当然、罪人であるというニュアンスのことばです。

Ⅱ.天の父の愛と招き  「それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるのでしょうか。」(11) ですから、と7節8節にもどって、天の父の愛による招きを見ましょう。「求め(続け)なさい。そうすれば与えられます。探し(続け)なさい。そうすれば見出します。たたき(続け)なさい。そうすれば開かれます。」(7)だれでも、求め(続け)る者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(8)ルカはこの「粘り強い執拗な祈りのたとえを2回(11・1~13,18・1~8)も記し、「良いもの」とは「聖霊」と記しています。天の父は常に「最善」を与えてくださる愛の父です。その愛を真に知る者たちに12節の『黄金律』への招きがあるのです。

<お知らせ>

▷「父の日」に関しては「母の日」とは多少ちがい、国によってちがう日程もあることがわかりますが、いずれにしても「お父さん、ありがとう!」と国中で「父」に感謝することはとてもうるわしいことです!私たちはもちろん、肉親の父に感謝すると共に、「天の父」への大感謝をおささげしたいものです。

▷午後には、「歌声カフェ⑧」を行います。実は、昨年の「父の日」から始められたものです。懐かしい歌を歌い、また賛美の由来を知って、感動をもって父なる神をたたえます♪ 有志によるデザートがまた楽しみであり、幸いな交わりも感謝です。また「天の父」をご存じない方々が招かれますように祈りつつ、行っています。

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教会行事としては、「花の日・子どもの日」聖日です。 2024.6/9(日)

≪今週のみ言葉≫

「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。」マタイの福音書6章28節

   説教題:『神への信頼』   聖書:マタイ6章25~34節

「教会行事」として本日は「花の日・子どもの日」ということで、聖書箇所が開かれています。「花の日・子どもの日」の由来は1856年、アメリカのマサチューセッツ州の第一ユニバーサリスト教会のレオナルド牧師が子どもたちをイエス様に導き、信仰告白をするようにと特別礼拝説教と行事をしたことが始まりでした。1870年にはこの日を「シャロンのばら」と名付け、礼拝堂をバラで飾り、子どもたちが花のように美しく徒の祈りを込めたことで「花の日」と呼ばれるようになり、神への感謝と人への愛と感謝を表す日となりました。日本では明治の中頃から教会学校行事として行うようになりました。この特別な行事もアメリカの教会の牧師から始められた美しい行事で、感謝な事です。

Ⅰ.心配症。 人はだれでも「心配する」、口語訳では「思い煩う」という弱さを持つ者です。「何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」(25)と、「心配症」の当時の人々に、又今も同じように「心配症」の私たちにイエス様は命じられます。「いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のもの」(25)です。「心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」(27)確かにその通りです。むしろ心配することによって身体も心もそれだけ疲れ果ててしまうでしょう。

Ⅱ.信頼しよう。 では、どうしたらいいでしょうか。イエス様は父なる神が創造された自然界に、又その中で養われ、育てられている「空の鳥」「野の花」に目をやりなさいと語られます。

①「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。」(26)【農業におけるこれらの行為は、当時男性の代表的な仕事とされてきた。したがって、この節では男性に対する思い煩いからの解放を述べているのだろう。】(『牧羊者』P.67) 「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(26)

②「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」(28)「野の花」と一言で言いますが、改めて春から初夏にかけての「花々の季節」には、毎年のように目を見張り、創造の神をたたえずにはいられません!この地上で見たことのない花々の数も知れないほどでしょう!!その形、種類、色、香り、何と絶妙なる神のハートからの創造のわざでしょうか!!「栄華をきわめたソロモンでさえ、この花一つほどにも装っていませんでした。」(29)【この仕事は当時の女性特有の仕事だったようであり、前節までの男性と併せて、女性にも思い煩いからの解放を、野の花のたとえを通して語られたものであろう。】(『牧羊者』P.67) まことに短命の野の花さえ「神はこのように装って下さるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。」(30)。そして偉大な結論が33節です。「まず神の国と神の義を求め(続け)なさい。そうすれば、これらのものは全て、それに加えて(たくさん)与えられます。」あなたがたの求めているものは「付録」なのですよと!ですから「まず神の国と神の義を求めなさい。」(口語訳も新共同訳も)‘But seek first His kingdom and His righteousness’(NIV)、すなわち《神第一の信仰》です。真実極まりない神を信頼しぬいている人の姿です。

<お知らせ>

▶♪小さなかごに花を入れさびしい人にあげたなら、部屋に香り満ちあふれ暗い胸も晴れるでしょう。愛のわざは小さくても神のみ手が働いて、悩みの多い世の人を明るく清くするでしょう。きょうは教会行事で「花の日・子どもの日」です。教会から感謝の心が警察署や消防署や病院など地域の方々にささげられる美しい日。

アメリカの一牧師先生の心から生まれました。感謝です。私たちの教会では、5月第2日曜日の「母の日」とドッキングして行っています。

▶次週、6/16(日)は「父の日」です。これもアメリカのクリスチャン婦人から始まりました。「お父さん、ありがとう!」とお家の「お父さん」に感謝すると芝に、「天の父なる神様」に心いっぱいの感謝をささげる日といたしましょう!

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6月第一聖日を迎えました。  2024.6/2(日)

≪今週のみ言葉≫

「人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」サムエル記第一16章7節

   説教題:『選ばれたダビデ』   聖書:サムエル記第一 16章6~13

 本日のテキストはイスラエル第二代の王として油注がれた「ダビデ」の選びの場面です。「人の選び」と「神の選び」に思いを馳せてみましょう。

.うわべを見る人。 第一代の王サウルが退けられて、神は第二代の王に油を注がせようと、サムエルをベツレヘム人エッサイのところに遣わされました。エッサイとその子らを祝宴に招き、そのエッサイの8人の子らの中から選ばれた者に油を注がせるためでした。父エッサイは、まずは当然のこととして長男エリアブをサムエルの前に進ませました。サムエルはエリアブを見て「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った(6)のでした。ところがそのサムエルの思いを、主は察して言われました。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」と。確かにサムエルは、長男でもあり、体格も良く頼もしくその目に見えたエリアブこそ、その人だと思ったのでしょう。霊的預言者サムエルでさえも、危うく判断を誤るところだったということです。「人はうわべを見る」ことに間違いありません。うわべしか見えない弱さを持っているということです。人生経験を積んでいき、人の心の動きや思いを自分の経験を通して次第に理解でき、心の内をのぞけるようになったとしても、やはり「神が見る」ようには、ほど遠いという人の見方であるのです。次男アビナダブ、三男シャマンと、「エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。『主はこの者たちを選んでおられない。』(10)と。では一体どこに?サムエルはエッサイに「子どもたちはこれで全部ですか。」(11)と言ったとき、羊の番をしている末の子がいるとの答えでした。

.心を見る神。 末の子が連れてこられました。「彼は血色が良く、目が美しく姿も立派だった。主は言われた。『さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。』(12)【ここに、いわゆる「紅顔の美少年」という言葉を当てはめるべきではない。~聖書における美しさとは、外形上のことだけでなく、優美な魅力と強い意欲、行動をも伴った者であった。イザヤ53章の主イエスのお姿をここで思い巡らすことは必要なことであろう。】(『牧羊者』(p.62)。ダビデは未成年でもあり、かつ羊を飼うという仕事は大切にされていない家族の一員か召使いのする仕事でした。彼は家族の誰からも気にも留めてもらえていない存在だったということです。しかし、神の目と心にかなったのでした。羊を飼いながらダビデの心には大牧者なる神のみこころが宿りました。そして生み出された詩篇23篇、ダビデの賛歌は「真珠の詩篇」と言われます。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(1) 【神は心を見られますが、偽善でない心、砕かれた心、混じりけの無い純粋な心で神を求める人を喜ばれるのです。】(『牧羊者』p.60) 

《補足》「エッサイの息子は7人か8人か」歴代誌第一2・15では、ダビデは第7子と記されていますが、シリア語訳によれば、エリフが七男でダビデが八男となっています。(『聖書難問注解《旧約篇》』p.346 いのちのことば社)

<お知らせ>

▶主の2024年、そうです、救い主イエス・キリスト降誕(誕生)から2024年というわけです、その年もはや6月に入りました!

▶先週の祈祷会には初めての方々2名久しぶりの方々4名が加わって下さり大きな喜びでした!

▶本日は礼拝後13:00より「プロジェクト希望にむかって」委員会(新会堂委員会)が開かれます。委員だけでなくどなたも招かれています。本気で「主の宮」のために集い語り合い祈り合えますように!イエス様が「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」(ルカ18・1)とおっしゃって下さりE・Mバウンズも「粘り強い祈り」をささげるよう勧めていますので祈って祈っています。お祈り下さっている方々、ありございます!

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5月最終聖日でした。 2024.5/26(日)

≪今週のみ言葉≫
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」サムエル記第一 3章9節
   説教題:『少年サムエル』   聖書:サムエル記第一 3章1~14節
 
本日から7/7㈰までのテーマは「サムエルと王たち」となります。その中に教会暦の「
花の日・こどもの日」(6/9)と「父の日」(6/16)が入ります。本日は「日々、神のみ
声を聞いて生きる」という目標のもとに『少年サムエル』を通して学びましょう。
 Ⅰ。献げられたサムエル。 
エフライムの山地出身のエルカナには二人の妻があり、一人はぺニンナ、もう一人はハ
ンナでした。ぺニンナには子がありましたが、ハンナには子がいませんでした。毎年、
シロで万軍の主を礼拝しに行った彼らでしたが、ペニンナは子のないハンナを苛立たせ
、怒りをかき立てるのでした。その年も主の家に行きましたが、ハンナは泣いて食事を
することもせず、立ち上がって主のみ前に出ました。「ハンナの心は痛んでいた。彼女
は激しく泣いて、主に祈った。」(1・10)のでした。「そして誓願を立てて言った。『
万軍の主よ。もしあなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはした
めを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そして
その子の頭にかみそりを当てません。』(1・11)とp誓って祈ったのでした。「その顔
は、もはや以前のようではなかった。」(1・18)とあり、やがて「エルカナは妻ハンナ
を知った。主は彼女を心に留められた。」(1・19)「年が改まって、ハンナは身ごもっ
て男の子を産んだ。そして『私がこの子を主にお願いしたのだから』と言って、その名
をサムエルと呼んだ。」(1・20)とあります。<主が聴いてくださった>との意味の名
前です。サムエルを、ハンナは約束通り乳離れしてから主に献げるべく、祭司エリのも
とに、主の神殿に連れて行って、委ねたのでした。その頃の祭司エリは老齢となり、二
人の子たち、ホフニとピネハスはよこしまで主のみ前に大罪を犯していました。「わた
しは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のた
めに確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む
。」(2・25)とは、サムエルを指しての言葉です。
Ⅱ.神の声を聴いたサムエル(本日のテキスト)。
「少年サムエル」(3・1)とありますが、歴史家ヨセフスによると、12歳ばかりに成
長していたと考えられています。エリは老齢となり、「主のことば」も聴けず、「幻」
も示されない状態だったことが2節で分かります。「神のともしびが消される前」とは
、夜が明ける前のことでした。主は、神の箱が置かれている主の神殿で寝ていたサムエ
ルを呼ばれました。サムエルは未熟で、てっきりエリ先生から呼ばれたと思い、エリの
ところに走って行きました。1度目、2度目、3度目・・・エリはやっと、「主が少年
を呼んでおられるということを悟った。」(8)のでした。エリは、サムエルに告げら
れました。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。
しもべは聞いております』と言いなさい。」と。(9)今度は、「主が来てそばに立ち
、これまでと同じように、『サムエル、サムエル』と呼ばれた。サムエルは『お話しく
ださい。しもべは聞いております。』と言った。」(10)とあります。サムエルにとっ
て、初めて直接、主のみ声を聴いた忘れもしない瞬間となりました。エリの家について
の厳しい預言のことばでした。主は語れる器サムエルを捜し見出されたということです
。お互いも、「神が語ることのできる、神のみ声を聴くことのできる器」として備えら
れていたいものです。「みことばと祈りによって、神の声を聴く器」として。<祈りの
母ハンナから、祈りの子サムエルの誕生>でした。(サムエル記第一12章23節 参照

<お知らせ>
▶早くも5月の月を終えて、6月の月に入ろうとしています。6/1(土)から「今月のメッセージ」「今月のお祈り」「ヘッダー(マーガレット)」が更新されます。
▶6月には、「父の日礼拝」が6/16(日)に行われ、その午後、「歌声カフェ⑧」がもたれます。懐かしい歌や賛美、おいしい昼食やデザート、そして交わりを楽しみます。地域の方々への伝道のため、用いられますようにお祈り下さい。お父さんたちには、(年齢を問わず男性には)「バジル苗」と、「おにぎり2コ」のプレゼントがあります!

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ペンテコステ聖餐式礼拝でした。  2024.5/19(日)

≪今週のみ言葉≫

「しかし、聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

使徒の働き1章8

   説教題:『聖霊降臨記念日』    聖書:使徒の働き1章3~8

 今年の教会歴では、5/9㈭がキリスト昇天記念日でした。昇天の前にイエス様は弟子たちに命じられました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1・4)と。弟子たちにとってエルサレムは恐怖の場所でしたが、復活の主のご命令と受けとめ、エルサレムの2階座敷に11弟子や婦人含め、120名ばかりの人々が集まって祈り待ち望みました。そして10日目、今年でいえば本日5/19㈰に、天からの第三位の神なるご聖霊が天から注がれ、ひとり一人の上にとどまったのでした!改めてこのように待ち望んで下さった方々への感謝にあふれることです!「ペンテコステ」の語源はギリシャ語の「5」に由来します。すなわちイエスの復活から数えて「50日目」のことでした!

 .聖霊による力 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。」(8)この「力」の語はギリシャ語で、「デュナミス」で、「ダイナマイトの力」です。どのような力でしょう?

①きよめる力。まさに「聖なる霊」ですから。魂の底まで汚れを示し、光を当て、悔い改めて清くなしてくださる力です。祈り待ち望む弟子たち他、ひとり一人の内側の汚れをその祈りの内に示し、彼らは自分たちの無能無力、汚れを徹底して示され悔い改めたことでしょう。すでに聖霊なるお方が備えて下さっていたに違いありません。

②祈りの力。 「見るまで、得るまで」祈りぬく力は、この聖霊なるお方が下さる力です。待ち望みぬく力です。イエス様は「10日目に、父の約束の聖霊が注がれるから」とは一言も言われませんでした。1日目~3日目~1週間~と、祈り待ち望み、ついに≪10日目≫天からの聖霊が注がれました!使徒2・2~3には、目に見える形で記されています。「風」「炎」「舌」聖霊なるお方の「しるし」でした。一同は聖霊に満たされたのでした!【神よ。粘り強い、心からの祈りが、地上で偉大なことをもたらしうることを、わたしは知っております。どうかわたしが祈り続けることができますように。アーメン。】(E.M.バウンズ『祈りの力』4/29分より)

 Ⅱ.聖霊による証人 この1・8のみことばは使徒の働き全章の中心聖句です。ルカは、エルサレム(6,7)、とユダヤとサマリアの全土(9・31)、さらに地の果てまで(12・24~)と、筆を進めています。イスラエルの国の再建でなく、「神の国」の拡大のために「わたしの証人」になるのだよ、と、イエスは語られたのでした。「証人」という言葉は、語源では「殉教者」という意味です。即ちキリストと「神の国」のためなら自分の命を差し出せる者という存在にしていただけるということです。ゲッセマネで、皆イエスを捨てて逃げ去った弟子たち、イエスを裏切った弟子、否んだペテロ、復活のニュースを聞いてもなお恐れて戸を閉じて震えていた、そんな「弱虫弟子たち」の上に、聖霊が降り、「天下にこのお方以外に救いはない!」と大胆に語れる「殉教者」に≪聖霊によって≫造り変えられるわざがなされたのでした!一握りの証人たちから、今や全世界に「主の証人」が誕生し、用いられています。私もその中の一人とされましょう!

<お知らせ>

▶ 2024年のペンテコステ、聖霊降臨記念日、おめでとうございます!

救われたひとり一人が聖霊に満たされて「主の証人」として用いられますようにとお祈りいたします!

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