卒園・卒業おめでとうございます!2023.3/12(日)

≪今週のみ言葉≫

 「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」ヨハネの福音書13章8節

 説教題:『足を洗う』 聖書:ヨハネの福音書13章1~15節

 

昨日の3/11㈯で東日本大震災より12年経ちました。この原稿を書いている3/9㈭の朝刊・香川版に感動的な記事が載っていました。震災後3年目のクリスマスから被災した子どもたち34人をホームステイさせ、寄り添い続ける高松市成合町在住のご夫妻(現在75才と74才)の記事でした。(ベタニヤに掲示)3/7㈫に行われた『防災セミナー』で、横田法路師が講演下さったことと重なりました。これからの教会の有り方は、避難所として、また地域の方々のために防災倉庫をもち、備蓄して被災者支援に備えるべきです。そのことが宣教となりますと。本日のメッセージ『足を洗う』にもつながっていきます。

Ⅰ.イエスの洗足 過越の祭の前夜、木曜日のこと、イエスは十二弟子と共に最後の晩餐(夕食と聖餐)の時を持たれました。主はこの世を去って父のみもとに行かれるご自分の時を知られ、「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」(1)ゆえ、かけがえのない時を過ごされました。そこで「イエスは夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいで拭き始められた」(4.5)のでした!弟子たちの驚きは非常に大きなものでした。その仕事は異邦人の奴隷のする務めだったゆえです。謙遜のきわみのお姿でした。ペテロとの問答で、イエスに足を洗ってもらわなければ、その人はイエスと何の関係もない者になるということが分かります。弟子たちにはこのことが一体どういうことなのか、全く分かりかねていました。イエスはペテロに答えられました。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」と。「後で」それは翌日、主が十字架に架けられてから分かるということでした。イエスは単に彼らの足の汚れを洗うだけでなく、十字架にかかり、血を流すことによって、彼らのすべての罪を赦し、きよめて下さるお方だということを「洗足」によって示されたかったのです。ゆえに、この十字架刑前夜ギリギリの所で、洗足をなさいました。

Ⅱ.互いの洗足 もう一つのメッセージは、14節、15節です。「互いに足を洗い合わなければなりません。」「あなたがたに模範を示したのです。」そしてこれはすなわち、34節の新しい戒めであり、35節の証しの生活です。真のリーダーシップの実践へのチャレンジでした。(マルコ10・43~45)。『人生はジグソーパズル』(福江等著)よりの証し。 ― あるご夫妻に結婚11年目に男の子が与えられ、2才になった頃のこと、台所のテーブルの上にふたをあけたまま薬の瓶を置いて、夫は急いで、ちゃんと蓋をして高いところに置いてくれと妻に頼んで出かけました。妻は台所仕事で、すっかり忘れてしまい、その子が瓶の薬を飲んでしまい、命を落としてしまいました。夫が病院に来て、その死んだ子を見た時、夫は妻に一言言いました。「愛しているよ。」夫は心の中で思ったのでした。「自分がちゃんとしておけば良かったのだ。誰も責め立てられるべきではない。妻はたった一人の子を失った。妻が必要としていることは、夫の理解と慰めだ。」そう考えた夫はそれを妻に示しました。もし、私たちが物事をこのように見ることができれば、この世界はきっと変わっていくでしょう。―「互に足を洗い合う」とは、こういう世界だと感動しました。

  <お知らせ>

▶レント・(受難節・四旬節)の日々を過ごしています。厳格に守られる方々は、この期間には「祝い事」をしないと聞いていましたが、日本文化の中ではやや難しいでしょう。『聖化の再発見』という本の中に以下のようにあり、さらに驚きました。「中世の教会のレントにおける肉食を断つこと、現代のクリスチャンのレントにおけるコーヒーやチョコレートを断つこと、あるいは、テレビやラジオや新聞を控えるという現代的な断食と言えるかもしれない。」(上巻・P82)キリストの十字架の受難の苦難を思えば、そこまでして当たり前と思います。大切なのは、魂・心の持ち方でしょう。主イエスの私のための[み苦しみ]をしのびつつ、慎んで過ごしたいものです。

▶喜びのイースターに向けて、世界中の教会に、受洗される方々、リバイブ・転入される方々が起こされますようお祈りします。

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