イースター・メッセージ③です。2020.5/3(日)

説教題:『燃える心』 、 聖書:マルコ16章12~13節 (ルカ24・13~32)

≪今週のみ言葉≫ 「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、  お互の心が内に燃えたではないか」。ルカ24章32節    

新型コロナウイルス緊急事態宣言が引き延ばしになりそうです。全世界は暗雲に覆われているように見えますが、自然界は陽射しは明るく、花々は咲き、春、まさによみがえりの春爛漫、命に満ち溢れています。「キリストの復活」とは、力強くも希望に満ちた雄大なテーマです。今週も主の復活の出来事の中から、もう一つの不朽の短編ともみられる「エマオの途上」のできごとです。エマオは「温かな井戸」という意味です。とベラカ4/16㈭で学びました。 

Ⅰ.閉ざされた眼・沈んだ心

  エルサレムからエマオのいなかへは詳しいルカの章によると約11Km、歩けば2時間ほどです。二人の弟子が「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいて来て彼らと一緒に歩いて行かれた」のでした。昔も今も論議するのは人、神は無言のうちにも現実にいます。「有って有るお方」です。「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」(ルカ24・16)とあります。マルコは、「イエスはちがった姿でご自身をあらわされた」(12)と記しています。「別の姿」(新改訳2017)どのような?ふつうの旅人として?バークレーは「エマオはエルサレムの西ゆえ、二人は日没にむかっていたから」と記しますが、あたかも象徴的です。彼らの心は沈み、眼は閉ざされていました。一つは「悲しみ」、師を失った悲しみ。二つ目は「失望」、「望みをかけていました」(ルカ24・21)が失望しましたと。三つ目は「不信仰」でした。これらのサングラスで眼はくもり、心は沈んでいたのです。

Ⅱ.開かれた眼・燃える心 

「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」(ルカ24・29)‘Abide with me’(新聖歌336 日暮れてやみはせまり・ロンドンオリンピック開会式で演奏された曲)復活の主は不信仰な二人に静かに近づき、割り込むのでなく、彼らが招き入れてくれるのを待たれた。エマオに近づきつつ、二人はイエスの言葉を聞きつつ、次第にこの旅人への思いが変えられていたに違いありません。なぜなら彼らはイエスを食卓の主人の位置に座らせたことが分かります。それは普通の夕食の席でした。しかしそこに座った人がパンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる内に彼らの眼が開けて、イエスであることが分かったのでした。「復活の事実」が彼らにとっても不動のものとなった瞬間でした。道理で、自分たちの心が共に歩きながら内に燃えたはずだと!み言葉と主の臨在により、「燃える心」で、日没に向かうのでなく、永遠の希望である御国をめざして、日々、主と人々にお仕え致しましょう。

<お知らせ>

▷新しい5月の月を迎えましたが、主の聖餐に共にあずかれず残念です。主の十字架と復活の恵みに感謝をささげましょう。

▷「5月のお祈りの課題」の中には、当教団も加盟している日本福音同盟(Japan Evangelical Association)からの特別祈祷課題を載せております。共に祈りを合わせて下さい。

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