日本のために、更なる祈りを! 2022.7/10(日)

≪今週のみ言葉≫
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」                             ルカの福音書10章36節

説教題: 『親切な隣人』  聖書:ルカの福音書10章25~37節

本日から8/7㈰までの5週は、『牧羊者』カリキュラムでは、〈キリストのたとえ話〉を学ぶことになっています。たとえ話といっても、非常に現実味を帯びたものです。本日、その第一はよく知られている「よいサマリア人のたとえ」で、これはルカだけが記しているものです。


Ⅰ.永遠のいのちを受け継ぐには。一人の律法の専門家が立ち上がって「イエスを試みようとして」(25)質問をしました。質問の仕方にも色々あるものです。「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」「何をしたら」と尋ねますので、彼は、行いによっての救いといのちと考えていました。神の恵みは抜きでした。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」(26)とのイエスの問いに対し、申命記6・5(神を愛する)と、レビ記19・18(隣人を愛する)という第一の戒めをもって100%正解の答えをしました。しかし、彼には、「それを実行しなさい」(28)とのイエスの言葉の前に、欠けのあることを覚え、自分を弁護しようとして、「では、私の隣人とはだれですか。」(29)と問い返したのでした。彼ら律法学者(ラビ)たちにとっては、隣人とはユダヤ人同胞を意味していたのでした。


Ⅱ.隣人となるには。 そこでイエスは、この「よいサマリア人のたとえ」を話されたのでした。ある一人のユダヤ人がエルサレムからエリコヘ下って行った時、強盗に襲われ、着物は剥ぎ取られ、殴りつけられ、半殺しにされ倒れていました。たまたま一人の祭司がそこを通りかかりましたが、その人を見ると反対側を通り過ぎて行きました。神に仕える祭司だったのですが。次にレビ人もその人を見ると、同じように反対側を通り過ぎて行きました。聖別された神の宮の務めについていたレビ人だったのですが。「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。」(33)のでした。[ギリシャ語:スプランクニゾマイ。この言葉は「はらわた」から来ており、「はらわたを突き動かされる」という意味である。サマリア人の行動のすべては、この思いのなせるわざであった。この言葉は、放蕩息子の父親(7/31分)の、「かわいそうに思い」(ルカ15・20)や、キリストが憐れみを示される時に使われている(マタイ9・36,14・14、15・32、20・34など)。したがって、このサマリア人の中にキリストを読み取ることもできる。](『牧羊者』P.26) サマリア人は近寄り、介抱し、自分の家畜に乗せ宿屋に連れて行きました。次の日、二日分の労賃、2デナリを宿の主人に渡し、介抱してあげて下さい。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(35)と言ったのでした。「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」(36)とのイエスの問いに、「その人にあわれみ深い行いをした人です。」(37)と答えると、イエスは、「あなたも行って、同じようにしなさい。」と言われました。愛の対象に制限はなく、たとい敵であっても「隣人になって」愛することだと、イエスは教えられました。大きな挑戦です。ただ、キリストの愛に満たされてのみ可能なことです。

<お知らせ>
▷7/8(金)には「そんなことが日本で!?」と思うような心痛むできごとが起こりました。神を信じ恐れるクリスチャンたちが今こそ主の教会に集って祈らねばと迫られます。

▷礼拝後2ヵ月に1度の教会学校教師会です。幼子たちへの伝道と救霊に更に真剣に取り組んでいきたいといつも思い祈っています。

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