宗教改革504周年記念日でした。2021.10/31(日)

≪今週のみ言葉≫

   「人の子は、失われた者を捜し出して救うために来たのです。」

                           ルカの福音書19章10節

 説教題:『救い主と出会う』   聖 書:ルカの福音書19章1~10節

 単元テーマ「キリストとの出会い」の最終週です。そして先週のマタイ19・16~26「金持ちの青年」の記事と、みことば26節「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」の実証のような「ザアカイとキリストとの出会い」です。

Ⅰ.ザアカイの求神(1~4) 「ザアカイ」というへブル名の意味は、日本風に言えば、「正さん」とか「清さん」との意味です。しかし実の生活と行動は、それらの意味とは全くかけ離れたものでした。エリコは地理的にも交通の要所であり、ローマにとっても重要な地でしたから、そのエリコの町の取税人のかしらであったということは、この人がどれほどの莫大な財を持つ金持ちであったか想像に難い。しかし人々からは「罪人」(7)呼ばわりされ、友もなく心淋しい人であったことも容易に考えられます。そこに「イエスはエリコに入り、町の中を通っておられた」(1)との知らせ。ザアカイは背の低い人だったので、イエスがどんな方かを見ようとしましたが、群衆のために見ることができなかったのでした。きっと誰もがザアカイをさえぎったとも考えられます。「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った」(4)のでした。実はいちじくのようで、葉は桑のような木、その枝は低いところから広がっているので、ザアカイにとっては登りやすかったようです。しかし、大の男が、いい大人が、なんと子どもじみたことをと、周囲の人は思ったでしょうし、今日読む者もそう思うザアカイの行動です。しかしそれは単なる好奇心を超えた「ザアカイの求神」のあらわれ以外の何物でもありません。

Ⅱ.イエスの求人(5~10) 実にザアカイは惨めな心をもってイエスに望みを託しつつ、そのいちじく桑の木の枝から、そこを通ろうとされるイエスをひそかに待ったのでした。意外な展開が5節です。イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」<ナ、ナゼ、私の名前を!?>(これまでまともに「ザアカイ」なんて呼ばれたことがなかったかも!)<しかも、私の家に泊まる!?>(泊まらねばならない、という非常に強い断定的表現。)イエスはザアカイのことをよ~く知り、彼の救いのためにその家に泊まらねばと心定めてエリコに来られたのでした。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」(6)ザアカイの心臓の高鳴りが聞こえてきそうです。彼はその家にイエスを迎えたのみでなく、彼の空しく淋しかった心にイエスを迎えて全く新しくされ、イエスは何のとがめ立てもされなかったのに、確実な悔い改めの実を結んだのでした。「失われた者」ザアカイをイエスは捜し求めて、救うために来られました。

<お知らせ>

▷「今月のメッセージ」「今月のお祈り「ヘッダー(コスモス)」が更新されます。

▷秋を飛び越えて冬がやってきた感じですが、「収穫の秋」です。「キリストに出会う方々」が、そして「キリストに出会わせる働き人」が諸教会に起こされますようにとお祈りいたします。「魂の収穫」を共々に喜びたいものです。

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